日系移住者とキリスト教(1)


 今年で100周年を迎えるブラジルへの初期日本人移住者の中にも当然キリスト者がいたと思われるが、その確かな統計や記録はないようである。最初に現れるブラジル移住者のキリスト教徒関連の記録は笠戸丸による第一回移住船(1908年)より4年後の1912年(明治45年)に隠れキリシタンの里、九州今村より100名前後のカトリック信徒のブラジルへの集団移住が記録されている。プロテスタント関連では1922年(大正11年)小林美登里氏がサンパウロ市の大正小学校の校内で、キリスト教の伝道を開始したことが、記録に残る最初の日本人宣教である。小林氏の出身宗派等は分からないが、プロテスタントの独立伝道者であった思われる。翌年の1923年には聖公会の伊藤八十二師とカトリックの中村長八神父が相次いでブラジルに着き、伝道を開始した。中村神父の宣教師としてのブラジル移住は、ブラジル・カトリック教会の要請を受けた日本のカトリック教会が人選を行い、ブラジルに宣教師として派遣した公式なものであった。1925年日本のホーリネス教団より物部赳夫牧師がブラジルに着かれ、サンパウロ市で伝道を開始された。1932年には単立教会「南米キリスト教会」が設立され、青木朋一牧師が伝道を開始した。1936年には田中三次大尉によって救世軍日本人部の伝道が開始され、また同年自由メソヂスト聖市教会が設立され、西住正義牧師が日本人に対して伝道を開始した。これらの初期の先駆者の溢れるばかりの伝道心とその信仰を、残された資料が比較的多い伊藤八十二牧師の歩みを通して辿って見よう。聖公会の伊藤八十二牧師に関してはブラジルでの40年の伝道生活において約2千5百人に洗礼を授け、7教会を創立し、ブラジルの日系開拓伝道者の一人で、聖公会にとってはその実績において偉大な伝道者であったにもかかわらず、その働きはあまり知られていない。

 伊藤牧師は1888年長野県で生まれ、東京高等商船学校を卒業後、見習い士官として乗船中、暴風雨に出会い、三千余トンの船は座礁、大破し伊藤青年を含む3名のみが奇跡的に助かった。彼はそれを「外でもない大能なる神様の御慈愛の腕に抱かれている証拠である」と感じ、直ちに大阪の聖公会聖救主教会にて洗礼を受け、翌年、聖公会聖三一神学校に入学した。在学中に起こった神学校の合併により日本聖公会神学院を1917年卒業した。卒業後、伝道師として徳島佐古町講義所に1年間勤務した。この時期、伊藤牧師の舎弟家族がブラジルに移住したが、その時、「精神的支柱を欠いた日本人移住者は、その困難の中で霊的平安を渇望している」、と聞き、また聖パウロの「このようにキリストの名がまだ知られていない所で福音を告げ知らせようと、わたしは熱心に努めてきました。それは他人の築いた土台の上に立てたりしないためです。」(ロマ15の20)と言う聖句が伊藤師の頭に浮び、ブラジル伝道への召命を受けたと本人は記している。同氏は1919年自費で渡米し、カリフォルニアの農園で3ヵ年、肉体労働者として働き、ブラジル開拓伝道資金を蓄えた後、1923年3月ブラジルに到着した。同年3月13日、最初の礼拝が伊藤師の司式説教で他の6名の青年たちと持たれたと記録されている。この後、直ぐに奥地伝道に出かけられるのであるが、ブラジル到着後、4日目に出向かれた舎弟の移住されたサンパウロから200キロ離れたレジストロ市には汽車と船で4日間掛かった時代である。長靴を履き、リュックを背負い、野宿も出来る服装で、背嚢には二日分の食料と衛生局より支給されたチブス予防注射、疱瘡種痘とバリカンを入れ、奥地の日本人植民地をくまなく訪問された。移住初期の日系植民地では予防注射簡単も受けられず、また床屋に行く事も出来なかった。伊藤師はまず植民地に着いて、宿を定めると、その家の畠を手伝い、夕刻畠から帰ってくる移住者の頭を刈り、夕食後、一日中畑仕事で疲れ切った移住者に集まってもらい、キリスト教講話をしたと言われる。後日、伊藤師の弟子として献身された金子勇治牧師は師の開拓伝道の姿を「交通不便な山奥に危険を冒して信者、求道者を訪問し、椰子の葉や草で葺いた山小屋同然の住家で移住者と寝食を共にし、聖書を紐解き、賛美歌を一緒に合唱したのである」と書かれている。この姿は初期の他教派の開拓伝道者においてもまったく同じであっただろう。伊藤牧師は名説教家として知られ、信徒はその様子を「終戦後初めての日曜日の説教であった。低く静かに先生の口から漏れてきた。預言者エレミヤが,敗戦の荒野に立って、肩にしてきた楽器をはずし、枯れ木にかけ。。。。と荘重なる声が響いてきた。先生は、悲しみに打ち沈んでいるが、これに屈してはならない、という信仰のひらめきを、お顔に表し清々と壇上の人となった時には、そのもの腰丈けで、既に一堂を圧していた。お話が始まると、堰を切った如く、啜り泣きが起こった。一同の波のようなすすり泣きの伴奏と共に、説教は始まり、結ばれたように思う」と記している。奥地での伝道が軌道に乗り、み国のための働き人の不足を感じられた伊藤師は献身者を募り島貫、磯、弓場、金子、小野、貝沼、高津等の青年たちを日本とブラジルの神学校に送り、自身の後継者とされた。1969年8月病のため、漸次衰弱し、一生を伝道に捧げた後、81歳にて召された。ホーリネスの物部牧師、自由メソジストの西住牧師も同じように各地に教会を設け、各教団の基礎を築かれた。

筆者
 伊東宏=1939年奈良に生まれる。1962年立教キリスト教学科卒。ブラジル聖公会の招きで渡伯。1967年ブラジル聖公会神学大学卒。1968年司祭按手受領。リオ・サンパウロの諸教会を牧会の後、2002年海外で初めての日本国籍保有主教として、ブラジル聖公会サンパウロ教区第4代主教に就任。2007年9月定年により退職。現在、サンパウロ聖十字教会嘱託。

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